松本とし子

まつもと 敏こ
日本共産党平塚市議会議員
ほのぼのタイム

戦争の悲惨さを語る・・・加藤桝治さん

2013年1月29日

加藤桝治さんから寄せられた「戦争体験を語って」をご紹介します。

戦争体験を語って

                                                          加藤 桝治

 今年、初めてのレッド・パージ反対同盟の会議のあと、懇親会で昔話に花を咲かせました。

 安倍政権は、早速、改憲、集団自衛権、国防軍などと日本を戦争する国への動きを示しています。戦争体験者としては我慢のできない問題です。戦争への道を進ませてはならない。戦争とはどういうことか知っているのか。それぞれが戦争の体験を語りました。

 関東配電(電産)でパージされたYさんは、一九四三年十二月に十七歳で海軍予科練習生となり、鈴鹿・土浦海軍航空隊で、厳しい訓練を経て偵察兵として任務に就きました。間もなく特攻隊員となり、出撃の時を待ちましたが、特攻機になる飛行機が無くなり、練習機が特攻機になる状況のもと、終戦となり生きて復員することができました。Yさんは私と同年齢です。当時、「予科練」は、青少年の憧れでした。体力と学力のある優秀な青年たちをあつめ、消耗品のように命を奪ったのです。

横浜市役所をパージされたNさんは一九四五年五月二十九日の横浜空襲を語ってくれました。この日の横浜空襲は、昼間の大空襲で、B29五一〇機、護衛戦闘機一〇一機の、集中爆撃で九時過ぎから一時間あまりで市街地の大半を焼き尽くした空襲でした。当時、Nさんは十八歳で横浜市役所に勤務していましたが、周囲がたちまち火の海になってしまったところを脱出し、反町に暮らしていたお姉さんが心配になり、空襲のさなか駆けつけました。行く途中どこも火の海で、焼死体も見ました。何とかたどり着きましたが、辺り一面が焼け野原、幸い、お姉さんは無事だったことが何よりだったと語っていました。

関東配電(電産)をパージされたF子さんは、戦時中、東京足立の軍需工場の寄宿舎に入っていました。家族は、三月十日の東京大空襲後、横浜市小机に疎開、疎開荷物を運ぶのにFさんは、日曜日ごとに、リヤカーで東京から横浜まで運んだそうです。四月の空襲で工場も寄宿舎も焼けてしまったので、家族のもとに帰り、間もなく関東配電に就職,ここで五月二十九日を迎えました。この日の朝、職場について間もなく空襲警報となり、家に帰るよう指示され、B29の襲撃と間一髪で横浜線に間に合い、小机の家までたどり着きました。横浜方面を見ると真っ黒い煙で覆われていました。

三人の共通する点は、戦争に勝つために命をかけてきたこと、そして敗戦。すべてを破壊しつくした戦争を体験。二度と戦争を繰り返してはならないと、戦後、労働組合運動に参加し、暮らしと民主主義を守る活動に参加してきました。そしてレッド・パージされたのです。

レッド・パージの不当性と、戦争体験を知らせ、二度と私たちと同じ道を繰り返さないよう訴えていこうと参加者みんなで申し合せました。

(二〇一三年一月)

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(毎年平塚市総合公園で行なわれる「市民平和の夕べ」で灯される

平和モニュメント「マザーアース」)


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