当時の東京の状況を示す文章があります。須田卓雄さんのもので、1970年(昭和45年)12月29日の朝日新聞に発表されたものです。
3月10日の(東京)大空襲から三日目か、四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。
永代橋から深川木場方面の死体取り片づけに従事していた私たちは、無数と思われるほどの遺体になれて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じた異臭にも、焼けただれた皮膚の無残さにも、さして驚くこともなくなっていた。
午後も夕方近く、路地と見られるところで発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。頭髪が焼けこげ、着物が焼けてやけどの皮膚があらわなことは、いずれも変わりはなかったが、倒壊物の下敷きになった方のほかは、うつぶせか、横かがみ、或いは仰向けが全てであったのに、その遺体のみは地面に顔をつけてうずくまっていた。
着衣から女性と見分けられたが、なぜ、こうした形で死んだのか。その人は、赤ちゃんを抱えていた。さらにその下には大きな穴が掘られていた。母と思われる人の10本の指には、血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。
どこからか来て、もはやと覚悟して、指で、堅い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。赤ちゃんの着物は少しも焼けていなかった。小さな可愛いきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。
だが、煙のためか、その赤ちゃんも、すでに息をしていなかった。私の周囲には十人あまりの友人がいたが、誰も無言であった。どの顔も涙で汚れゆがんでいた。
一人が、そっとその場をはなれ、地面にはう破裂した水道管からちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。若い顔がそこに現れた。ひどいやけどを負いながらも、息も出来ない煙にまかれながらも、苦痛の表情は見られなかった。
これは、いったいなぜだろう。美しい顔であった。人間の愛を表現する顔であったのか。
だれかがいった。『花があったらなあー』あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。私たちは、数え19歳の学徒兵であった。