29日は南相馬市の渡部議員と、宿泊したホテルの玄関に8時半に待ち合わせ、「避難指示解除準備区域」となっている小高区と多くが「帰還困難区域」である浪江町を案内していただきました。
小高区に入ると、避難指示解除のためのインフラ整備が進められているとはいえ、町中に壊れた家々が無残な姿で残っていました。
あちこちで下水道の工事などが行なわれ、住民も高圧水で家の周りを除染していましたが、すぐそばの放射線測定器は「0.486」を示しています。
南相馬市全体では20㌔圏内の除染の進捗は1%、20㌔圏外でも6%しか進んでいないといいます。20㌔圏内は国の仕事、それ以外は自治体の仕事と分かれており、まだまだ先が見えないというのが実態です。
また、津波が襲った地域では、道路の通行に支障がない所は大きな瓦礫を撤去しただけ。渡部議員は場所ごとに、かつてあった戸数や人口、消防団や自衛隊と一緒に行方不明の方々の捜索をした時の状況を説明されました。
「ここでは赤ちゃんが・・。出産のために実家に来ていて、娘も家族も家のそばで見つかったが、赤ちゃんはここまで流されていた・・。」など、ご自身も小高区に住んでおられたため、本当に身につまされるものでした。
右は海です。津波はこの川を渡ってコンクリートの橋を倒して遡上していきました。
誰の土地だろうと関係なく、瓦礫やゴミが積まれており、近じかこれらを処理する焼却炉(建屋のない、これらの処理が終わったら解体する焼却炉)を建設する予定になっているとのこと。
この場所からは福島第一原発が見えました。距離としては原発から5・5~6・0㎞離れている所。
写真の奥に見える鉄塔は、東北電力の浪江・小高原発が建設される予定地だったといいます。地元でも強い反対運動が起こっていたが、今回の東京電力による原発事故で、今年3月28日、東北電力はこの原発建設を撤回すると発表しました。
ここは浪江町請戸小学校。学校の先生の「高台に逃げろ!」の指示で先生の車に乗せられるだけ乗せ、走れる人は走らせ、1km以上離れていると思われる高台に逃げて、全員無事だったということでした。先生方の素早い判断は後世に語られることと思います。
校舎の時計は津波が来たであろう3時37分で止まっていました。
2階には、きっとみんなで拾い集めたのでしょう、みんなの大切なトロフィーや楯が並べられていました。
ここも津波でやられたところです。今も舟が刺さったままの状態です。
案内していただいた渡部議員(真ん中)と。共産党のボランティアセンターに復興支援で来たが、途方もない災害に帰ることが出来ずに、骨を埋めるつもりで頑張っている方ともご一緒しました。
JR常磐線の小高駅には、学生や通勤の人たちの自転車がその日のままになっていました。
地域の住民で組織している草刈り作業。農業もできず仕事もない中、こうした仕事で日当を得ているとのことでした。
2011年3月12日付けの新聞は届いたけれど、配れないまま閉め切った新聞販売店がその時の非常事態を物語っていました。