90歳を迎えて
加藤 桝治
3月で90歳になります。戦争中、私たちの年代では、「人生20歳」と自分に言い聞かせてきましたから、90歳まで生きるなんて自分でも驚きです。
私が生まれた年は1926年、大正15(昭和元)年です。(西暦は下二けたとします)
31(昭和6)年、5歳のときに満州事変。37(昭和12)年、11歳のときが日中戦争の開始。41(昭和16)年15歳のときに太平洋戦争の宣戦の布告でした。子どもの時から戦争に勝つため、お国のために尽くす。天皇は神様だから天皇の為に命を捧げる。戦争で死ぬことが日本人にとって当然のことなんだ、これが「愛国心」だと教育されてきました。
私は40(昭和15)年に14歳で横山工業と云う会社に「養成工」として入社しました。42(昭和17)年にこの会社に米軍機の最初の空襲で爆弾が投下され、私の同期の少年はじめ15人が爆死しました。この空襲の事実と被害は軍部から完全に秘匿されましたが、戦意高揚に利用された。戦局がますます厳しくなり、空襲が連日のように激しくなると、志願し兵隊になれと軍司令部から軍人が寮へ指導に来ました。
8月15日にポツダム宣言を受託し連合国に降伏。日中戦争以後の日本軍の戦死者は、212万人といわれます。私もその一人になるところでした。
敗戦を山形の聯隊で知り、戸惑いました。何をしていいのかわからなくなりました。親戚の農家に手伝いに行ったり、貸し本屋から本を借りて読むなどして段々と現実を見れるようになりました。その頃『風雪の碑』(森正蔵著)と云う本を読んで。この戦争に反対して投獄されていた人が沢山いたということを知ったのです。これは衝撃でした。あの戦争は何のための戦争だったのか考えるようになったのです。
1947(昭和22)年5月3日、日本国憲法施行。「これで戦争に巻き込まれなくなった」嬉しかったですね。以後70年戦争で人を殺し殺さることが無くなりました。
長生きできた背景は戦争を放棄した憲法があったこと、9条は何として守らなくてはなりません。
若い頃、病弱だった私が90歳を迎えられたことは、なんといっても妻・秀子のおかげです。「人生20歳」を乗り越えてきた命だ、さらに生き延びて、「戦争」を語り継ぎ、「戦争法阻止」の輪を大きくしていきます。
4年前の7月に東京代々木公園で「さよなら原発10万人集会」があり、平塚から30人程で参加しました。この時、作家の瀬戸内寂聴さんが「自分以外の命の為にも反対と言い続けましょう」と訴えました。その冒頭に、「私は90歳になりました90歳の人いますか。手を挙げてください」と問われました。あの時、あと4歳足りないなと思ったことを鮮明に覚えています。いまは、手を挙げられます。「戦争体験」という貴重な財産を多くの人に話しながら、一日一日を大事に歩き続けましょう。
(2016年2月末)