米軍の本土初空襲 4月18日に想う
加藤 桝治
私にとって4月18日は忘れることができない日です。太平洋戦争開戦の1941(昭和16)年12月8日から4カ月後の米軍の日本本土初空襲の日で、私の働く工場に爆弾が直撃、『でこぼこ通信』にも書いてきました。この日を契機として米・中への報復作戦の強化、国民を犠牲にする戦時体制が強化されました。今回は、新聞・放送への検閲体制がどのように強められたかを見ることにします。
毎日新聞(朝刊)で「千の証言」第2部が4月21日からはじまりました。1~2回で米軍の本土初空襲1942(昭和17)年4月18日に爆撃機ノース・アメリカンB25爆撃機16機(指揮者はドゥリットル中佐)が京浜地方、名古屋、神戸に突然来襲、横須賀、横浜で米機を見た人の話を載せ、「大本営(実際は東部防衛司令部・筆者)は『9機撃墜、被害は軽微』と発表した。だが、本当は一機も撃墜できず、88人の市民が犠牲になった」こと、二回目の号で、東京葛飾の小学校が銃撃され少年が死亡し、遺族の追想が述べられています。
空襲の翌日の4月19日の『朝日新聞』は、1面で「わが猛撃に敵機逃亡・軍防空部隊の士気旺盛」2面で、「初空襲に1億たぎる闘魂・敵機は燃え、落ち、退散」とし、被害状況は軽微としてほとんど書かれていない中で、先の小学生への銃撃は、固有名詞なしで小さく載せています。
『神奈川新聞』19日付の1面は、「敵機京浜地方に現る・軍民協力し一糸乱れぬ応急処置に被害極めて僅少」と県内の被害状況を載せず、「たちまち9機を撃墜す」と『東部防衛司令部』の発表を載せています。まったく報道されなかったのは、軍需工場の被害です。私が勤務していた横山工業で多くの青年が爆死した事実も、日本鋼管川崎製鉄所、富士電機。日本鍛工、昭和電工など軍需工場地帯の被害状況は全く触れていません。
一方で、東日新聞が「早大付近に爆弾が落とされた」と書いた記事を問題にして、「敵は損害程度を鶴首しているから日時、場所、被害程度など今後絶対のせてはいけない」と叱責。大本営と情報局は空襲時の報道を統一させるため、会議を持って検閲方針を決定しました。そのなかには、▼空襲被害状況は新聞、ラジオは今後一切不可。▼空襲関係の発表は大本営一本に統一する。▼空襲被害写真は一切掲載禁止。情報局関係の検閲方針として、▼被害程度に関し、発表以外は出さない。▼被害状況を描写するにあたり、悲惨感を与えない。▼被害の箇所を局部的に描写したり、被災者の狼狽状況は出さない、▼死者または負傷者の運搬状況に関する写真、死体写真は載せない。▼その他敵国に利せられるもの。
また、4月18日の空襲以来、気象関係の記事は厳重に禁止されました。
以後、日本中の都市の空襲で焼け野原になっても、焼死体があっても、写真は勿論1行の記事も新聞に書くことを許されませんでした。
いま、憲法を踏みにじって戦争の道を進もうとしている動きをみるとじっとしていられない。私にできることをと思い戦争法廃止の署名で歩いています。
参考文献・『大空襲・5月29日』今井精一(有隣堂)。『新聞は戦争を美化せよ』山中恒(小学館)。
(2016年4月)