松本とし子

まつもと 敏こ
日本共産党平塚市議会議員
ほのぼのタイム • 活動ファイル

加藤桝治さんからのエッセー

2016年9月4日

加藤桝治さんは今年もこのブログに何度か寄稿してくださっています。最近体調を壊されお休みしていましたが、9月初日に嬉しい原稿が届きました。ご紹介いたします。

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ホワイトジンジャーの花。

「戦争を語り継ぐ大磯の会」に参加して

加藤 桝治

8月20日、第7回「戦争を語り継ぐ大磯の会」で、「戦争体験」を話してくれないかと要請され参加しました。この集会は、2010年に「大磯の戦争を語り継ぐ会」として発足し今回で7回目の集会になります。大磯町以外の人の体験も聞こうということで表記のようにしたそうです。

 「第1回集会」に私も参加しましたが、この時の話は、鮮烈な印象を受けたので今でも覚えています。大磯在住の宮代治吉さんの話で、終戦後、宮代さんは中国八路軍(人民軍)の収容所にいましたが、国民党軍の謀略で集団脱走した事件があり、殆ど殲滅される中で、別行動をとった宮代さんたち6人は山中を1ヶ月逃げ歩き、八路軍に捕まり、収容所を経て一般市民として働いたのち、1958年に帰国したというもので、「墨河暴動」と言われているそうです。

 そして、今回が7回目。内容は、

第1部は、詩の群読でした。詩の朗読学習サークル『ポエムの杜』の人達で、社会福祉施設などで活動をしているそうです。男女10人程で「さとうきび畑」を読みあげました。歌はよく聞きますが、群読という形では初めてでした。その想いがしっかりと伝わってきました。

第2部は「戦争体験談」平塚空襲の体験を持つ渡辺貞子さんと私。

渡辺さんは、平塚の市街地をはずれた長持(旧金田村)の生まれで、87歳。1943年(昭和18年)平塚高等女学校3年生から、学徒動員で工場へ、終戦の年(5年生16歳)は、茅ヶ崎の東京計器で働いていました。7月16日、平塚空襲のあった日は、焼夷弾で家は全焼してしまいました。東京や横浜の親戚がここなら大丈夫と、大事なものを預かっていたのですが、家は全焼し全てのものが焼けてなくなってしまいました。戦争が終わってほっっとした感じでした。と話していました。

次は私です。3月頃から声が正常に出なくなって心配でしたが、リハビリなどして声が出るようになって安心しました。

 私は、「本土初空襲と箝口令」ということで、1942年(昭和17年)4月18日、米軍の日本本土初空襲の話をしました。この日、大磯の高麗神社の祭りでその上空を米軍機が飛んだからです。この空襲で、私の働いていた川崎の横山工業㏍に爆弾が落とされて10数名の労働者が爆死し、負傷者も出ました。大半が16~17歳の青年たちだった。ところがこの事実を「親兄弟にも話すな」と軍から命令されました。軍司令部は、一機も撃墜しないのに9機撃墜と報道、新聞でも工場地帯の被害は報道されませんでした。国民の目・耳・口をふさいで軍・国がとった方針は、①空襲関係の発表は大本営一本に統一する。②空爆米軍機が着陸を予定した中国の飛行場周辺の軍・民間施設を徹底的に壊滅させる作戦を開始しました。

私たちの周辺では「人生20」で命を捨てるが合言葉になりました。それは、子どものころから「国の為に命を捧げる」そう教育されてきたからだと話しました。 

憲法が公布され。戦争が放棄された。平和の中で70年を生きてきたことは、憲法9条があったからです。憲法改悪反対ですと結びました。

終わった時、多くの方から、「ありがとう」と激励の声がありました。お母さんと一緒の小学生の男の子から、「今日は有難うございました」と言われ嬉しさがこみあげてきました。      (2016年8月)


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