このホームページで「加藤桝治さん」からの寄稿を何度か掲載してきました。今回の寄稿は、日本が最初に米軍の空襲にあった1942年4月18日についてでした。
当時の事を調べてみると、朝日新聞の見出しには「けふ 帝都に敵機来襲 九機を撃墜、わが損害軽微」、小見出しには「沈着な隣組の大活躍」と書かれていました。
その生き証人である加藤さんの文をご紹介します。
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まもなく4月18日がやってきます。
平塚市・加藤桝治(87歳)
高齢の方と空襲の話をすると、多くの人からでてくるのが1942年(昭和17年)の米軍の最初の日本本土空襲の話です。
この日、4月18日は、大磯町高麗神社の春の例大祭で、祭り見物に集まった人々の頭上をかすめるように米軍機1機が飛び去ったというのです。「顔が見えるぐらい低空で飛んできた」、日本軍の飛行機だと思い、「嬉しくなって、大きく手を振った」という人もいました。それが米軍の最初の空襲だと知って、その印象が強かっただけに今でも語り継がれているのだとおもいます。
まさに、その直前に私の働いていた川崎の横山工業に爆弾が直撃し、死者15人以上、負傷者多数を出しました。その多くが私と同期の養成工で16~7歳の少年たちでした。
この日、昼食終え仕事についた直後、ガガアァ-ンとすごい音がして瞬間的に工場のスレート屋根が一斉に落ちてきました。当時会社は、産業道路を挟んで南・北に工場があり、爆弾は北工場に落ちたのです。当時、私は横山工業の養成工3年生で、4月1日で南工場に配置されたばかりでした。亡くなった人たちは、それまで一緒に働いていた人たちでした。
間もなく、養成工全員は集まるようにいわれ、被害のあった養成所の教室に入ってみてアッと驚きました。死体は運ばれたあとでしたが、教室一面血の海で、壁に身体の一部がこびりついていました。空襲警報で警備につくというので集まっていた所を爆風で4人が即死し、一人が足を吹き飛ばされました。爆弾が落ちたのは教室の隣の棟の倉庫でした。教室と反対側の機械工場でも爆風で何人も犠牲になりました。
この空襲は、米空母を発進したB25、16機によるもので、京浜地帯をはじめ各地を空襲しました。その被害状況を戦時中は国民に知らせず、軍部は、1機も撃墜しないのに、「9機撃墜、わが方の被害は軽微、皇室はご安泰」と発表し、私たちは「被害状況を親兄弟にも言うな」と厳命されました。戦争被害を国民の目から隠したのです。日本鋼管川崎製鉄所も爆撃されたのですが知らされませんでした。
何日かたって、鶴見の総持寺で葬儀が行われ、友人の遺骨を胸に抱いて参列しましたが、戦争への疑問よりも「仇を討つ」ことでした。
その後、生産管理は一層強まり、便所の落書きまで憲兵隊が調べるなど監視され、横浜聯隊区司令部から軍人が寮まで来て「国の為に命を捨てろ」と精神指導が行われていました。
最近、安倍首相は、「国土防衛」とか「愛国心」を盛んに口にしています。ゾッとします。あのようなことを絶対に繰り返してはなりません。