加藤桝治さんから2月末にエッセイが届きました。遅くなりましたがどうぞ、お読みいただけたらと思います。
今回のエッセイを読むと、先日このブログに掲載したNHK番組「熱狂はこうして作られた」(3月4日掲載)の実態を見ることができます。
(写真は金田公民館まつりで展示された盆栽です)
日本本土最初の空襲は どう新聞に書かれたか
加藤 桝治
2月に平塚博物館の文化祭があり、博物館で活動する各サークルの活動の展示、発表などがおこなわれました。
私の所属する『平塚の空襲と戦災を記録する会』は、1942(昭和17)年4月18日の「初めての本土空襲」を報告することになり、私が空襲の体験を話し、会の会長がこの空襲の背景を話しました。
1941年12月8日、日本軍航空隊が、真珠湾軍港などを奇襲して米国太平洋艦隊に大損害を与え、米英に宣戦を布告しました。アメリカは、「真珠湾を忘れるな」を国民の合言葉にし、日本への反撃を開始しました。大統領の要望もあって、海上からの日本本土空襲を計画しました。この計画は、空母に積んだ陸軍機で日本を空爆し、中国の非占領地に着陸させるというものでした。
爆弾を積んで滑走距離の短い空母の甲板から発進するためには、並々ならぬ技量が必要です。その隊長に曲技飛行で著名なドウリットル中佐を選びました。ドウリットルは、陸軍の中型爆撃機ノース・アメリカンB25を決め、猛訓練を行ったのち、空母に16機を載せ出動、42年4月18日、京浜地域と名・神方面を空襲したのです。
私が働いていた横山工業への爆撃は、昼食休憩を終わって仕事についたときにドカーンとものすごい音とともにスレート屋根が一斉に落ちてきた。爆弾は道路を隔てた北工場の倉庫に直撃、倉庫の東側の養成所と、西側の機械工場にいた労働者が爆風で多数の死者と怪我人を出しました。死者の大半は、16~7歳の青年でした。家に帰るとき、会社の幹部から「軍からの指示だから」と云って「今日のことは親兄弟にも言うな」と厳しく言われました。
今回の文化祭に、空襲直後の『朝日新聞』と、『神奈川新聞』を展示しました。両紙の19日付は、「わが猛撃に敵機逃亡、軍防空部隊の士気旺盛」「敵機は燃え落ち退散、〝必消〟の民防空に凱歌」(『朝日』)。「敵機京浜地方に現る…被害は極めて僅少」「忽ち9機撃墜す―東部軍管区発表―」(『神奈川』)などと被害は軽微、敵機は撃墜と報じましたが、実際は1機も撃墜することはできませんでした。そうした中で、小学校児童が銃撃で殺されたことを大々的に発表し、「この悪辣な行為を許さず米英撃滅に一路邁進しよう」(朝日)と敵愾心をかき立てました。
あれだけ大きな被害を受けた横山工業や、工場の被害には一言も触れていません。紙面の片隅に、「爆撃の被害など憶測せず、軍を信頼して職場を守れ」(『朝日』)という記事がありました。
私自身、日本鋼管や富士電機、昭和電工、日本鍛工など軍需工場が被爆したのを知ったのは戦後でした。県警察史によれば日本鋼管16人、横山工業18人計34人の死者、重軽傷者90人とありました。当時の新聞は、完全に政府と軍の統制下におかれていたので真実を書けませんでした。
国民の目、耳、口をふさいで進めた戦争を思い起こすと、先ごろ国会で成立した「秘密保護法」が恐ろしく感じます。廃止させなければと思います。
(2014年2月)