松本とし子

まつもと 敏こ
日本共産党平塚市議会議員
ほのぼのタイム • 活動ファイル

加藤桝治さんからのエッセイ  奇跡の生還者の話

2015年12月3日

友人のNさんから聞いた戦争体験

加藤 桝治

昨年は、風邪で何回も点滴をしてもらい乗り切りましたが、今年は大丈夫と思っていたら、突然、胸が痛くなったり、息切れが激しくなったりしたので病院へ行くと、「心不全」で即入院で10日ほど病院で過ごしました。「歳を考えて、無理をしないように」と医者から注意されました。

 入院した病室の隣のベッドに、50年来の友人Nさんがいるではありませんか、今年93歳、市内に居住ですが、車椅子の一人暮らしなのでお互い疎遠になっていたのでびっくりしました。 

誤嚥性肺炎で救急車で運ばれて3週間ほど入院、間もなく退院とのことでした。積もる話が一杯で、カーテン越しに話しかけてきます。他の患者さんに気兼ねしながらの会話です。

 以前に聞いたNさんの戦争体験も話題になりました。紹介します。

 Nさんは、1942(昭和17)年5月、志願して横須賀第2海兵団に入団し、主計兵として土浦海軍航空隊を経て駆逐艦に乗船し、近海哨戒の後、パラオ島に配属されました。当時はまだ米軍の直接攻撃もなく物資も豊富で天国のようだったそうです。ところが1944(昭和19)年2月の末にアメリカの機動部隊の大空襲があり、パラオに停泊していた連合艦隊がフィリピンに避難しました。Nさん乗船の艇は直撃を受け沈没し、多くが死傷し、無事だったのはNさん以下6人でした。

 だんだん空襲が激しくなり、44年9月ごろ、パラオ諸島内のぺリリュー島に米軍が上陸し、約2ヶ月ほどの激戦の後日本軍は「玉砕」(全滅)しました。しかし、相当数の兵隊が島伝いに逃げてきました。Nさんたちのところにも20人程が来ましたが、「玉砕したのに生きているのはおかしい」と、軍上級から命令が出て、再びぺリリュー島に戻されることになり、小型の舟艇で出撃していきました。みんなで、なけなしの衣類や食料・兵器を与え泣きながら見送ったそうです。

45年になるといよいよ食料が欠乏し、兵士一人当たり一日の食糧は米30グラムと、小さいサツマイモ3本ほどでした。ネズミ、野鶏、コーモリ、ゲジゲジまで食べられるものは何でも食べました。栄養失調で死ぬ者、神奈川県出身の志願兵は小銃で自ら命を絶ちました。みんな生きていくことがやっとで人の死に無感情になっていました。

 8月15日に終戦、46年の1月3日やっと浦賀に帰ってきました。Nさんは、「戦後70年の平和は、憲法9条があったからだ。『戦争法』は廃止させなければならない」と語っています。

ぺリリュー島戦…パラオ諸島にあり、南北9キロメートル、東西3㎞の小島に日本軍1万1000人、米軍4万8740人が1944年9月から11月にわたり激戦、日本軍の戦死1万695人、捕虜202人、生存34人。米軍の戦死1794人、戦傷者8010人、精神異常者数千人。

出典フリー百科事典『ウィキペディア』

(2015年11月末)

(写真は中原地域にて)

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