お店には様々なチョコレートが並び、みんなの気持ちを引き付けようと懸命です。こうして「バレンタインデー」が近づくと思い出すことがあります。
それは、私がまだ栄養学校に通っていた頃のこと。私が育った頃は、田舎ではまだまだ生活は厳しく、誰もが大学に行ける条件などありませんでした。私には年の近い兄と弟がいて、当時父は「苦しくても、今の時代男には大学を」と思っていたようです。
だから、女である私は否応なく「お前には、上の学校に行かせるお金はない」と高校卒業を前に親から宣言され、奨学金制度を使って働きながら栄養学校に通ったのです。
当時川崎にある会社の寮で、早朝6時から朝8時まで働いて朝食を食べ、「行ってきます!」といって着替えて東京の栄養学校に行って学び、帰るとすぐに着替えて夕方5時から夜の10時まで働く。これが奨学金制度を受けた私の仕事でした。
当時(昭和47年ころでしたが)、しっかりとバレンタインデーは根付いており、私が住み込んでいた男性独身寮では、2月14日というと門の前にチョコレートを抱えた若い女性の人だかりができたものです。
と言っても、そこに押し掛ける女性も私も大体同じ年齢です。「すみません!なんであなたはそこにいるんですか?○○さんと一緒に住んでいるんですか?」などと私が質問攻めに・・!
そこは、川崎にある日本鋼管の男性独身寮だったのです。当時の鋼管のバレーボール選手はほとんどがこの寮に住んでいました。幸せにもそこで私は、多くのバレーボール選手に出会い、語る機会を得ました。そして、私はその時の人気に全くとらわれない生きかたをしている選手に出会ったのです。
私が気になったその人は、必ず夕方寮に「ただいま」といって帰ってくるのです。テレビを見て勝敗は分かっていても、「お帰りなさい、今日の試合はどうでした?」と聞くと、その日の試合の状況を話してくれ、そのあと私たちが作った食事を食べながら静かにテレビのニュースを見ている人でした。
当時私は20歳。「自分の人気と自分の生き方とをしっかり区別している人がここにいる。こんな素敵な人を若い女性はどうしてみんな放っているの?こういう人こそ素晴らしい人生を保障してくれるはずなのに!」と思ったものでした。
そして、チョコを持って来る多くの若い女性のお目当ての選手たちは、いつも留守でした。